Serenachan’s blog

音楽ジャンキー 

Creepy Nutsはなぜ人気か?「たりないふたり」

Creepy Nutsは、内向的人間の代弁者だと思う。
内向的な人というのは、一人でいる時間を持つことで充電する人のことである。彼らは一人の時間を楽しむことができる。一方外向的な人は、友達とわいわいしたり、外に出て人と触れ合うことで元気になる人たちのことである。私自身は、完全に内向的な人間である。そんな私がとても共感したのが、「たりないふたり」という曲である。この曲、内向的な人間の説明書のような曲なのだ。

例えば、「○○会に行きたくない」、というところ。人の多い場所にはなるべく行きたくない。それどころか家でぼーっとしたい。…この、ぼーっとしたいというところがミソである。内向的人間は、とにかく思考の量が多い。よく言えば思慮深くて、悪く言えば行動力がなくてぐずぐずしている人だ。だから、他人からしてみればぼーっとしている。そんな風に、体は何もしていないのだけれど、頭ではあれこれ考えていて、気づけば時間がたっているのだ。だから、「友達超少ない、寂しい?いやそうでもない」。自分のなかで、ぐるぐる対話みたいなものが行われているのだ。

そして、「たりないふたり」の中には、「何かしたいけど、周りの目が気になってできない」という歌詞が畳みかけるように出てくる。これはよくある歌詞のように聞こえるが、よく見てみるとそうではない。たいていの場合、大きな夢があるけど、そんなの叶うわけないだろう、と周りの人たちが笑ってくる、だからできないといった具合だろう(そしてそのあとには、でもやるんだ!という前向きな歌詞が続く)。しかしこの曲の歌詞では、おしゃれなカフェに行くとか、BBQするとか、大それたことは何もない。一見するとすぐにかなえられそうなことばかりである。しかし、人の目が気になる…。これ、人の目といいつつ自分自身の目なのである。常にもう一人の自分が自己批判をしているから、自分のセルフイメージからかけ離れたことをしようとすると、「お前そんなんじゃないだろ、カッコつけるな、かわいい子ぶるな、頭いいふりするな」と、もう一人の自分がストップをかけるのである。

そして、一番辛い点は、その自意識過剰さに自分が気づいていることである。笑われるかも、嫌われるかも…という歌詞の後に、「誰もお前のことなど気にしてないだろ」という歌詞が、ツッコミのように続く。第三の自分の降臨である。自己批判する第二の自分を、「そんなに考えるほど誰もお前のことなんて見てないから!」と、さらに客観視するのである。だから、「結局のところ自分が足りない」といっているけれど、ある意味自分が足りすぎているともいえるのである。足りすぎているからこそ、がんじがらめになって動けなくなっていく…。(爆ぜろ‼でも、calm down calm down…と、「もう一人の自分」が登場する場面があるから、R-指定さんはきっと筋金入りの内向的人間なんだと思います。)

Creepy Nuts、今ANNにも登場して、大人気である。もちろんフリースタイルダンジョンに象徴される日本語ラップブームもあると思う。しかし、彼らが予想している以上に、彼らに共感している人がたくさんいるのだと思う。世の中では、外向的な人間のほうがいいとされがちだ。そんな中で肩身狭く生きてきた内向的な人間。そんな人たちの気持ちを、これでもかというほど代弁する人が表れたのである。私も最初聴いたときは、あれ、私こんな歌詞書いたっけ?となった(笑)。そして、正直に自分をさらけ出したR-指定さんの歌詞は、どこか生き辛いと感じていた人たちに寄り添う。あ、自分の他にもこんな風に思っている人がいたんだ、と思うだけでどこか安心できる。こんな自分でもいっか、と思える。彼らは、内向的人間のスターなのである。

(ああ、今この時も偉そうに解説なんかするなよ、分かった気になって…と言っている第二の自分がいます…(笑)助演男優賞、じっくり聴こうっと…)

曲:Creepy Nuts 「たりないふたり」R-指定&DJ松永

ボカロ好きだった私の今

最近、様々なタイプの音楽を聴くようになった。具体的には、アシッドジャズや邦ロック、シティポップ、アイドルソング、そして日本語ラップである。
しかし、思い返してみると、私は昔Jpopばかり聞いていた。八年くらい前で、YUIやいきものがかりコブクロの最盛期であった。私も私の親もあまり音楽を熱心に聴くタチではなく、メディアでよく見るアーティストしか知らなかったのである。
そんな私の音楽に対する視界は、少しばかりではあるけど広がった。その契機は何なのかと考えると、それはボカロな気がするのだ。

私は中高生のころ、熱心にボカロを聴いていた。毎日ニコニコをチェックして、ランキングを見るのが日課だったほどだ。世間では、私が高校生になったころから大人たちにもボカロの存在が注目されはじめ、分析本が出たり、テレビでも若者に人気なカルチャーとして情報番組などで取り上げられてきた。その多くは、「なぜ」ボカロが人気なのかを丁寧にひも解いていた。しかし、ボカロを聴く世代の音楽観がどのように変化したのかはあまり書かれていない気がする。そこで、ボカロ流行時代にどっぷりつかった私自身、ボカロカルチャーにどのように影響を受けたのだろうかとはたと思った。

普通の音楽とボカロでは、楽曲との出会い方が全く違う。例えば、動画サイトで誰かの楽曲を聴きたいとする。その時に検索ボックスに入れるのは、アーティストの名前だ。「乃木坂46」と入れれば、検索結果では乃木坂の楽曲のみが出てくる。サジェストでも、出てくるのはきっと性質の似たアイドル楽曲だろう。しかしボカロの場合はそれが少し違う。「初音ミク」と検索すると、確かに初音ミクが使われた楽曲が出てくる。しかし、その曲たちは違う作曲家たちの作った、雰囲気の違う曲なのである。

ネットで音楽を聴くとき、最低限アーティストの名前または曲名を知らなければ、その音楽に到達することはできない。しかし、その限界を突破したのがボカロという存在だった。初音ミクというフィルターを通して、思いもかけなかった音楽との出会いが生まれたのだ。もちろん、Jpopが似たような曲ばかりだということではない。しかし、一定の大勢から支持を得る、聞き心地のいい曲が多いと思う。激しすぎず、まとまっていて、歌詞も恋愛に関連したものが多い。対して、ニコニコ動画内にあるボカロランキングの中には、様々な楽曲があった。作曲家たちのルーツが違うのだから、当然といえば当然だ。また、テレビなどの規制がないからか、歌詞も少し過激なものが多かったように思う。そのようにして、新しいジャンルの音楽に耳をならしていったのだ。

まず最初に驚いたのは、wowakaさんの楽曲だった。あんなに歌詞が詰まっていて、手数の多い曲は聞いたことがなかったと思う。歌詞も、言葉遊びのようなもので、そこも衝撃的だった。何も考えずに、ただただリズムに身をゆだねるのが心地よくて、ずっと聴いていた記憶がある。また、just be friendsや流線プリズム、waveのようなクラブっぽい音楽にも出会った。そして、天樂や東京テディベアなどの重くてダークだけどアガれるロック…。自分のなかでは、ボーカロイドの楽曲ということで一緒くたになっていたから、ジャンルの違いを下手に意識することがなかったし、ジャンル分けしようとも思わなかった。それがよかったのだろう。

こうして、色んなジャンルの片鱗に触れた。ボあカロ沼から抜け出した時には、はまる前にはノれなかった音楽にノれるようになっていた。昔は聴き方がわからなかったものが、聴けるようになった。オタク文化だと揶揄されがちなボカロだが、私の音楽の地平を広げてくれたのは確かである。もし私のような人間がある程度いるとしたら…。これから、もっと多様多種なジャンル・歌詞の音楽が支持されるようになるかもしれない。

夢アドのスキャンダル

乃木坂ほど深くではないが、夢アドもそれなりにチェックしていた私。特に、マワルセカイとか、証明ティーンエイジャーなどのシリアスな曲が好きで、よく聞いていた。

CDは持っていなかったので、youtubeのPVを見ていたのだが、ルックスレベルが高い!といつみても感心していた(笑)。調べてみたら、案の定ジュニア誌のモデルをやってる子たちだった。皆足が長い…。

私みたいな平凡女子からすると、彼女たちは、なんていうか「強い」女子だ。美貌があって、スタイルがよくて、雑誌のモデルであか抜けている…まさにスクールカーストの頂点にいる子。

だからこそ、今回の活動休止には驚いた。夢アドって、秋元グループみたいに「男性ファンに夢を見させる」ことを目標にしたグループじゃないと思っていたから。その圧倒的美貌を武器に、「私たちを見たい人は見ればいい」っていう、いい意味で高慢なグループだと思っていた。女性ファンも、そこにあこがれていたと思う。特に誰かに媚びなくても、美しさで観ている人を黙らせるような、女としての戦闘力の強さ。

でも、結局あかりんは活動を休止することになった。彼氏がいたってところよりも、夢アドって、恋愛禁止だったのか!?という感想がまず初めに浮かんできた。(それとも、相手が大物若手俳優とかだったら何か違ったのだろうか…逆に箔がつくとか)今の社会、男性が力を持っていて、まだまだマッチョだ。だからこそ、「男性に夢を見させ媚びを売るのではなく、奔放に堂々と生きる美しい女の子たち」という、虚構を見せてほしかった。誰も関係ない、私は私のやりたいことをする!って他を黙らせるような、強気なアイドルでいてほしかった。

アイドルというシステムの中にいる限り、それは無理なのかもしれない。確かに、売れるには男性の支持は不可欠だろう。しかし、夢アドにはぜひ「カワイイ」でファンを黙らせてほしかった。「カワイイだけじゃダメなんですか!?」という文字通り、あざとく強かで、自由な女の子像を体現していてほしかったなぁ。

二人セゾン・私なりの解釈 

もっぱら乃木坂派な私ですが、「二人セゾン」聴いて、撃ち抜かれてしまいました。

もちろんサイレントマジョリティーからチェックはしてました。今の「権力」(学校や教師、国とか政治機関など、大きな力を持つ者)に反抗する曲で、少し前になりますが学生団体であるSEALDsなんかをほうふつとさせる歌詞になっていて、時代を反映した、多くの人に刺さる曲だなあと思ってはいました。そのイメージを壊さずに、「世界には愛しかない」を発表していた。

でも今回の「二人セゾン」は、恋愛を通した「少女の成長物語」になっている。

「セゾン」という「常に移り変わるもの」を人の心となぞらえている。主人公の恋した相手が、「自分だけのいる閉じた世界」から、「外の世界」に主人公を連れ出すという、秋元康に代表される恋愛の形式を描いた曲だと思います。(「君の名は希望」に通づるなーと思いました。)しかし、別れを乗り越えて、「切ない月日」、「思い出」を抱きしめて生きていく、というような前向きさが曲調や歌詞、パフォーマンスからにじみ出ている。

たぶん、この主人公は「新しい世界」を見て成長したからこそ、大切な人との別れを決断したんだと思います。まるで、たった五分のPVでショートムービー一本観たかのような感じでした(笑)。この苦くて甘くて、青い恋愛でどのようなストーリーラインを想像するかは、その人の恋愛体験に左右されるのだろうなと思います。

で、そのMVなんですが。明確なストーリーがあるわけじゃないんですが、パフォーマンスやカットから生き生きした感情が伝わってきて、びっくりしました。アイドルらしい、カメラ目線の笑顔を詰め込んだ映像というよりは、メンバーの自然な表情が詰まっていた。バッグを投げたり、飛び跳ねた時のスカートの揺れとか、木漏れ日などできらきらしていて、恋愛したときのわくわく感が嫌でも伝わってくる。「花のない桜を見上げて~」からは、たぶん春夏の楽しかった記憶を邂逅していて、切なさ・感情の強さのボルテージが一気に上がるパート。平手さん、本当にすごいなあと思いました。ダンスで、感情の強い揺らぎを表現している。

ライブ映像も見ごたえがありました。最初観た時はすごく動きが多いな!とびっくりしましたが(笑)。最初の平手さん一人がたたずみ、ほかのメンバーが大きな三角形を作っているシーン、そのあとにその大きな塊がほどけて、ばらばらになった後、Aメロからいろいろなメンバーが順番で出てくる。なんだか、思い出を振り返っている時に、いろいろな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡っているみたいな感じだなぁと。最後にその思い出たちを背に歩き、振り返ると思い出はほどけてみんな別方向を向いている…。

同じ坂道グループでも、曲に対する演出やパフォーマンスで何を訴え、何を売りたいのか、というのが全く違う。欅坂ってこんなに素敵なグループだったんだなぁと気づかされました。

いまさらながら、永島聖羅の卒業を思い出して。

乃木坂46にはまったのは、「何度目の青空か」の時だった。

それまでは、私と同い年の子たちがあんなにキラキラ輝いているだなんて、知らなかった。それから私は、どっぷりと乃木坂の魅力にはまっていく。

 

それから約一年後、私はついに乃木坂のアンダーライブに行った。初めての乃木坂のライブだった。ちょうどクリスマスの時期で、クリスマスカードが配られたのをよく覚えている。そのときセンターを主に務めていたのは堀ちゃん、ひめたんだった。

 

そして何より、忘れられないこと。それは、あの黄色一面の武道館だ。

 

まさか、とは思った。ライブの最後のほう、アンダーのまとめ役的存在である永島聖羅が卒業を発表したのだ。黄色は彼女のイメージカラーであった。最後まで彼女らしく、メンバー思いのコメントをのこして彼女はステージを去った。

多くの人が「らりん、やめないで」と叫んでいた。多くの人ががっかりした顔をしていた。会場はしんみりとして、黄色くまばゆい光で包まれているのに、どこか物悲しい空気が曲と一緒に流れていた。私と一緒に行ったファンも、「らりんには辞めてほしくなかった」と、本気で残念がっていた。コンサートの後、私があまり悲しそうではないことに、少しいらだっていたほどだ。

 

誤解を恐れずに言おう。私にとって、卒業は全く悲しい出来事ではなかった。

きれいごとのように聞こえるが、卒業して幸せになって成功してほしい、これからを見てみたいという気持ち、期待でいっぱいだった。

 

彼女たちのような、キラキラ輝いている存在ではないにせよ、私も同じ時代を生きる同世代の女だ。どうしたって、彼女たちに自分を重ねてしまう。アイドル=偶像なのだから、当然といえば当然なのかもしれない。しかし、内向的でシャイで、でも頑固で…という乃木坂の多くのメンバーに見受けられる気質が私と似ていたからか、私はこのグループに人一倍自身を投影してしまうのだ。

この卒業も、例外ではなかった。彼女はずっとアンダーメンバーで、努力が報われていないように見えた。すっかり固定された選抜に、心砕かれ限界になった、というのもあると思う。しかし、紅白出場など、乃木坂というグループが軌道に乗り始めていたのも確実だった。それでも、彼女は卒業した。

環境を変えて彼女が好き勝手に気分よく、自分のやりたいことができるのならば、それが一番いい。いやむしろ、「自分のやりたいこと、向いていることは何なのか」を彼女自身が自分で認識できたことが喜ばしい。

正直、うらやましい。この世の中に、本当にやりたいことを選び取っている人はどれくらいいるのだろう。それをつかみ取れるかは別としても、自分が何を欲しているのかわからない人だってたくさんいるのだ。

私が、友達でもない、一アイドルの卒業を恣意的に解釈しているのは承知している。しかし、「卒業」という大きな決断をした彼女は、きっと自分が何をしたいか、その輪郭が見えてきたのだと私は思った。何かを確信して、アイドルたちは「卒業」していく。

 

私は卒業を悲しまない。しかし、彼女たちには絶対に幸せになってほしい。そうでないと、困る。私はもう彼女たちに自分を映し出してしまっているのだから。グループという成長場所を通して見つけた、自分がやりたいことを追いかけてほしい。誰かの指標でなくて、自分の物差しで測る幸せをつかむために。